「ねぇ、シオン」 「……何よ?」 「その仏頂面、何とかならない?」 「ならない」 即答する詩音の顔をニコラスが覗き込む。 「最初にちゃんと基礎をやっておかないと、後で直すの大変なんだぞ」 「……分かってる」 「そのわりには何度も同じところで、同じことをやってるみたいだけれど」 ニコラスの笑いとも諦めともつかない調子の声に、詩音はますますむくれた顔になる。 詩音の不機嫌の理由。 それは彼に注意されたピアノの指使いの間違いだ。 彼女は一旦そう思い込んでしまうと、なかなか直すよう指示された指で鍵盤をたたくことができない。正しく弾こういう気持ちはあるのだが、それより先に手が勝手に覚えた通りのポジションに動いてしまうからだ。 「不器用だな、シオンは。大人になってからピアノを始める人は総じて手首や指の動きが固くて苦労するものなんだが、君はそっちより頭が固いみたいだね」 「し、失礼なっ」 ムッとした顔で口をへの字にして楽譜に向かう彼女に、ニコラスが少しからかうようなニヤけた笑いを向ける。 「さっきから君の手の動きを見ていてさぁ、もう笑えて仕方がないんだけど」 意識すればするほど腕に力が入り、ぎこちなく鍵盤の上を彷徨う手。その無様さは自分でもよく分かっていた。 「……うっさい」 一層ぷっと膨れた彼女の頬をニコラスの長い指が突く。 「止めてよ、もう」 伸びてきた指を手の甲で払い退けると、詩音はじろりと隣に立つ彼を睨み付けた。 「だって、思わずぶすっと突きたくなるほっぺただからさ。ついでに先っぽでぐりぐりしたら穴が開いたりして」 「あなたって日本人に生まれていたら、きっと指先で障子に穴を開けまくる悪ガキになっていたタイプよね」 「障子?何それ?」 「木枠と和紙でできた間仕切り戸?うーん、部屋の仕切りのパーテーションみたいなものかしら」 説明しながらその実物のことを頭に浮かべた彼女だったが、うろ覚えにしか思い出せない。 大体、それは最初から実家にあったものではない。 父親が建てた当時、日本の住まいはアメリカ人だった彼女の母親の生活スタイルに合わせた洋風建築で、和室というものは一つもなかったはずだ。後に祖母が一緒に暮らすために一部改装された時、改めて畳の間が作られ、その時初めて実家の洋館にも障子と襖が入ることとなった。 「日本の家は木と紙でできているって聞いたことがあるけど、本当なのか?」 「それはちょっとオーバーな表現よ」 さすがに日本でもそんな家は少なくなった。未だ木造モルタルの家が作られているが、昨今軽量鉄骨やツーバイフォーといった工法も多くみられるようになっている。何より戸建だけでなく、マンションも膨大な数で建設されているのだからもはや紙と木だけではどうしようもないというところだろう。 「確かに古いお寺なんかにはそういったものが残されているけど。でも障子は今も和室に使われている家が多いわね」 幼いころの記憶の中で、彼女が初めて「障子」を見たのは、帰国した当時祖母が住んでいた古い日本家屋だったと思う。築80年を超えるというその家は戦前に建てられ、その後の戦火を免れたために昔のままの趣を残していた。土地が人手に渡った今では恐らく建物はもう取り壊されてしまっているであろうが、そこは詩音が生まれて初めて「和」というものに直に触れた場所でもあった。 「キョートなら行ったことがあるけど、ほとんどオフの時間が取れなかったからなぁ。ホテルは近代的なところだったし」 「神社仏閣はたくさんあるけど、そんなに面白いものかしら?」 「その辺はよく分からないけど、一度は見て触れてみたいと思うよ。古の日本ってやつに」 ニコラスを含む多くの外国人にとって、まだまだ日本は多くの謎とエキゾチックな雰囲気を持つ不思議な国なのだろう。だが、10年余りそこで暮らした詩音にはそういった感傷的なものは一切ない。だからといってそれを自国の歴史的な宝として誇るような気持ちにもなれない。 そんな彼女は時々思うことがある。 自分はいったいどこに根があるのだろうか、と。 日本人の父親とアメリカ人の母親。 生まれた国アメリカと、育った国、日本。 ハーフという名の通り、半分半分の血を持つ自分だが、考え方によっては2つの祖国を持つと言われることもある。 だが、物心ついてからの彼女は、いつもそのどちらにも完全に属することのできない自分を持て余し、宙ぶらりんなままの気持ちを燻らせていた。 「その感覚、私にはよく分からない」 アイデンティティを喪失したわけではないが、幼少時に両親を亡くし、しっかりとした礎石を持てなかった彼女にとって「自己」を見失わないように生きることは結構大変なことだったのだ。 そして長ずるにつれて、完璧な日本人である姉に比べて自分の脆弱な立場を敏感に感じ取った彼女は、自らの意志で海を渡り、この国に戻って来た。そしてここにいても未だ中途半端な自分のあるべき姿を探し続けている。 「シオン?」 ぼんやりとそんなことを考えていた彼女の背中を包み込むように、ニコラスが腕を回してくる。 「いつかまた日本に行きたいな。その時にはゆっくりとあちこち見て回りたい」 「だったら現地でガイドを雇えばいいんじゃない?通訳も兼ねた」 その腕を払いのけることはなかったものの、彼女は不思議そうな顔で肩越しに彼を見た。 「でもせっかく君がいるんだし。君が一緒なら、わざわざそんなの頼まなくても済むだろう?」 「何で私があなたと一緒に行かなくちゃいけないのよ?勝手に行ってくればいいじゃない」 「それじゃ意味がないだろう?」 「意味って何の?」 そう聞いた詩音に、ニコラスはしたり顔をする。 「もちろん、俺たちのハネムーンさ」 「はぁっ?」 眉間に皺を寄せ、彼女は素っ頓狂な声を上げる。 「誰がハネムーンに行くのよ?」 「俺と君」 「何で私たちがハネムーンに行かなくちゃいけないのよ」 少し赤らんだ頬を隠すように彼女はそっぽを向いた。 その顔を両手で挟み、自分の方に向けたニコラスがにっこりと笑う。 「もちろん結婚するから」 「あんたバカ?」 「酷いなぁ、傷つくなぁ。せっかくプロポーズしてるのに」 「……勝手に言ってろ」 哄笑する彼の腕をばしっと叩き、逃げるように部屋を出ていく詩音の様子を見たニコラスがふと切なそうな目をして呟く。 「こういうのってなかなか相手に届かないものなんだな。俺本気なんだけど」 そんな彼の思いを聞くこともなく飛び出した詩音は、意味もなく玄関と部屋の前を何度も行ったり来たり、往復していた。 「一体なんなのよ、もう」 その時、突然そう言われた方の彼女もまた、首まで真っ赤になりながら、なかなか収まらないドキドキに戸惑っていたのだった。 |